安部谷古墳群(あべだにこふんぐん)
丘陵斜面につくられた横穴墓群で、凝灰岩に彫り込まれた精巧なつくりをもっている。 内部の形はトップクラスの古墳にみられる石棺式石室そっくりで、6世紀末~7世紀前半のもの。 見学路沿いにある5基(国史跡)の他に、谷全体ではさらに5基以上見つかっており、埋まっているものを含めれば数十基になる可能性がある。国指定史跡。
岩屋後古墳(いわやあとこふん)
展示学習館の東に位置する、6世紀後半に築造された古墳である。 現在は墳丘が失われ、石室が露出しているが、もとは差渡し30m・高さ5m以上の古墳と推測され、人物埴輪が出土している。県指定史跡。
出雲国造館跡推定地(いずもこくそうかんあとすいていち)
古代(8世紀)における出雲国造出雲臣の居館跡は、現在の大庭町土居地区(神魂神社参道周辺)と推定されている。出雲国造家は中世に千家家と北島家に分かれ、明治初期までそれぞれの宿館が参道近くに置かれていた。
出雲国府跡(いずもこくふあと)
奈良・平安時代の出雲国の政治的中心地で、現在の県庁や市役所などが集まった官庁街にあたる。 国庁の位置については古くから諸説あったが、発掘調査で現在の六所神社周辺と確認され、その後見学できるように整備されている。 1999年から調査が再開され、国庁周辺の他の役所跡の解明にも期待がかかっている。 また、一帯は古代の条里制の地割りが全国的に最も良く残っている。7~13世紀の遺構。国指定史跡。
出雲国分寺跡(いずもこくぶんじあと)
天平13年(741年)、 聖武天皇が全国の国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるように命じ、出雲国分寺は8世紀後半に完成したと考えられる。 発掘調査が行われ、水田の下から南門・中門・金堂・講堂・僧坊・回廊・塔などの跡が発見された。国指定史跡。
出雲国分尼寺跡(いずもこくぶんにじあと)
出雲国分寺跡の約東400mのところにあり、発掘調査により、国分寺と同規模の金堂跡が発見されている。集落の下にあるため、全体のようすは不明である。8世紀の遺構。
大草岩船古墳(おおくさいわふねこふん)
この古墳は石棺の材料となる凝灰岩がとれる山の上にあるため、直接岩盤を彫り込んで立派な船形の棺をつくっている。 棺内は長さ180cm、幅45cm、深さ27cmあり、蓋石は失われている。墳丘は全長25mの前方後方墳とも推定されている。6世紀前半の遺構。県指定史跡。
大庭鶏塚古墳(おおばにわとりづかこふん)
墳丘は44×42mの大きさで、方墳としては県内第5位の規模をもつ。 南と西側に造り出しと呼ばれる飛び出し部分がある。 墳丘は畑の造成により3段に見えるが、もとは2段づくりと考えられる。6世紀前半の築造。国指定史跡。
岡田山古墳群(おかだやまこふんぐん)
風土記の丘センター敷地内にある大小7基からなる古墳群である。 1号墳(6世紀後半)は、墳長21.5mの前方後方墳で、額田部臣(ぬかたべのおみ)の銘文入り大刀が発見されたことで有名である。 2号墳(5世紀頃)は、直径44mの円墳で、円墳としては島根県下有数の大きさである。国指定史跡。
荒神谷・後谷古墳群(こうじんだに・うしろだにこふんぐん)
ウォーキングトレイル(はにわロード)の北側丘陵にある、前方後方墳3基、方墳15基、円墳6基、横穴墓約80基からなる大古墳群。6~7世紀の遺構。県指定史跡。
十王免横穴墓群(じゅうおうめんよこあなぼぐん)
山代二子塚古墳の東約1kmにある内陸工業団地内に残されている横穴墓群である。 工業団地造成時に調査され、37穴の横穴墓が確認された。内部に石棺があるもの、壁画らしき線刻が見られるものなど、注目すべきものが多い横穴墓群である。県指定史跡。
東百塚山古墳群(ひがしひゃくづかやまこふんぐん)
大草古墳群の中で最も古墳が集中する場所で、総数133基以上が確認されている。 密集してつくられており、現地で見る様子は古墳団地という表現がふさわしいほどである。最大の1号墳は5世紀後半に築造された一辺20mの方墳で、二段につくられ、葺石や埴輪がある。県指定史跡。
古天神古墳(ふるてんじんこふん)
全長27mの前方後方墳。見学路沿いに石室の入口があり、内部を見ることができる。 石室は最も古い石棺式石室(6世紀後半)で、発掘調査により銅鏡・大刀・馬具・土器などが出土しており、現在東京国立博物館に保管されている。県指定史跡。
御崎山古墳(みさきやまこふん)
全長約40mの前方後方墳である。後方部に両袖式の横穴式石室があり、内部に大小2基の石棺が置かれている。鏡、大刀、馬具、土器などが副葬されていた。6世紀後半の築造。県指定史跡。
山代郷北新造院跡(やましろごうきたしんぞういんあと)
発掘調査によって金堂跡や塔跡などが発見され、寺院全体の規模が明らかになりつつある。 金堂跡には仏像3体をおくための石の段(須弥壇〔しゅみだん〕)が残っており、全国的にも注目された。出土品には多数の瓦のほか、仏像片や風鐸(ふうたく)などがある。7世紀後半に建立されており、『出雲国風土記』によれば日置君目烈(へきのきみめづら)が建てたことがわかる。別名は来美廃寺(くるみはいじ)。国指定史跡。
山代郷正倉跡(やましろごうしょうそうあと)
正倉とは、税としておさめられた米を入れた倉庫で、各郡ごとにあった。 『出雲国風土記』には「山代郷は郡家の西北三里百二十歩(1.8km)のところにあり・・・・、正倉あり」と書かれ、実際に発掘調査で、直径60cmもある柱を20本も使用した大規模な倉庫群や、炭化した米が発見された。8~9世紀の遺構。国指定史跡。
山代郷南新造院跡(やましろごうみなみしんぞういんあと)
『出雲国風土記』に記載された、出雲臣弟山(おとやま)が建立した新造院の跡と考えられる遺跡である。 平安時代(9世紀)に四天王像をおいた、四王寺(しわじ)跡とも考えられている。県指定史跡。
山代郷南新造院瓦窯跡(やましろごうみなみしんぞういんかわらかまあと)
山代郷南新造院跡から約200m南の丘陵斜面に位置する。 山代郷南新造院の瓦を焼いた窯跡で、3基確認されている。焼成室と燃焼室の段差が大きい特徴的な半地下式の穴窯で、平窯に改造されたものもある。県指定史跡。
山代二子塚古墳(やましろふたごづかこふん)
全長94mで県内最大の規模をもつ前方後方墳。 墳丘の一部は旧陸軍歩兵連隊設置の際に土取りされていたが、今は復元整備されている。 復元された墳丘の中には本物の古墳の盛り土を見学できる観察室があり、古墳づくりに高い技術がつかわれていたことがわかる。出雲東部の大首長が葬られていると考えられている。6世紀中頃の築造。国指定史跡。